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[3]焼夷弾による都市無差別爆撃について
(長岡空襲3/5)
__ 日本の都市が、火による攻撃に弱いことは、日本に住む人ならよく分かっているでしょう。しかしアメリカはご丁寧にもドイツ風の家屋と日本風の家屋を作って実験し、どちらが焼夷弾攻撃による被害割合が多いだろうなどと調べています。 __ B−29による日本本土の爆撃については、当初は重要軍事施設に対する高高度からの大型爆弾による攻撃が主体でした。高高度からの攻撃は日本側の防空体制を考えれば有利ですが、強い季節風により攻撃の精度が確保できないこと、高高度で飛行するためには燃料消費が多くなり、かつ爆弾の積載重量も少なくなるという欠点がありました。 __ そこで第21航空軍司令官のカーチス・E・ルメイ少将が、夜間低高度からの都市への焼夷弾攻撃を始めました。1945年3月10日の東京下町での焼夷弾攻撃では10万人近い人々が、たった一夜で焼き殺されてしまいました。本をみるとよくある写真が、いやに丸みを帯びた自動車の焼け跡の周りに黒焦げの人々の遺体が転がっているものです。この写真はアメリカで発売された"Rising Sun"(著者名失念)という本にも載っています。しかし一番衝撃的なのが、母子の黒焦げの遺体写真でしょう。幼子を負ぶって逃げる途中に焼かれたのか、母の背中に少し焼け残った部分があるなど、あまりにも残酷です(ref.#4 pp82)。 __ 都市への焼夷弾攻撃は東京の後、引き続き日本の大都市で行われました。しかし4月以降、沖縄戦のためか、焼夷弾が底をついたのか、しばらく数が少なくなりました。しかし6月から再び激しくなり、地方の都市まで攻撃されるようになりました。 __ なお、戦後、日本政府が航空自衛隊創設に貢献があったとしてルメイ氏に勲章を贈ったのは有名な話かと思います(ref.#8 pp211-212)。 __ もともと焼夷弾としてはマグネシウムを用いたものがありましたが、材料の供給の面で難があったことから、ガソリンから作られるM69という焼夷弾が開発されました。M69の子弾は長辺が3インチ(約7.5cm)の6角形断面をもち、長さは20インチ(約50cm)です。これが19個2段になって、集束弾に詰められます。 __ 集束弾はB−29から投下された後、地上160mで子弾M69を分散させ、M69は5秒遅延導火線によって屋根を貫通後、油脂を放出することになっています。この点について、M69が分散した時点でヒューズが外れて遅延導火線に着火するのか、屋根に叩きつけられた時点で撃鉄が作動して着火するのか、本を見る限り不明です(どなたかご存知ないでしょうか)。 __ また油脂放出時に既に着火したものと、着火していない油脂が噴霧された場合があるようです。着火して火の粉の滝のような写真がある一方で、長岡の体験談の多くは、雨または霧のような油脂が降ってきたと証言しています。その油脂が服に浸透し、火がつけば大火傷になるわけで、M69はある意味で対人兵器だったのではないでしょうか。そんなことはどこにも書いてなく、私の想像だけですが、いかに日本の家が燃えやすいとはいえ、径7.5cm、長さ50cmはアメリカ人が作るものとしてはサイズが小さ過ぎるような気がします。 __ またM69の対人兵器的な側面として、人への直撃による死亡例が非常に多いことがあげられます。長岡の場合で言えば、人口の2倍以上のM69が落とされていて、直撃による死が体験談の中に非常に多く見られます。 __ なお、投下された爆弾のトン数については、米国の数字がそのまま使われることが多いのですが、米国のトンは2000ポンドであり、日本の水1立米に相当するトンとは違うような気がします。もしそうであれば、日本人同士が焼夷弾等の投下トン数を語る時は0.907を掛けた方がよいように思います。この点もどなたかご存知の方がおられないでしょうか。 [このページの最上部に戻る] [前のページに戻る] [次のページに進む] [日本語トップに戻る] |